西郷どんよりもっと前の悲しい過去
こんにちは、チャバティ64です。
今日も静岡はいい天気です。
みなさん、花粉症に苦しんでいませんか?
ボクも実は花粉症なんですがこの時期は「べにふうき」というお茶を飲み、顔に針を打ってもらって、あとはコンビニマスクです。
さて、昨日のお話の続きです。
ボクが鹿児島生まれで岐阜育ちには訳があるというお話です。
別に興味はないでしょうが、読み終わった後は「なるほど」と、なるのです。
ただし、長いお話になりますので2日に渡ります。
(メンソーレ風です)
ついでといっては何ですが、
奄美のサトウキビが「黒糖地獄」と呼ばれるようになったのか?
そこには、江戸幕府による「大層な嫌がらせ」ともとれててしまう出来事がありました。
それが「宝暦治水(事件)」です。
岐阜県美濃地方の子供は学校で習い、遠足で石碑やお寺にお参りに行きます。
大きくなるにつれ、生活に溶け込み過ぎて忘れていってしまいますが、内容を知れば、史跡もたくさん残り、不謹慎ながら、今風に言えば「聖地巡礼」のツアーが組めるほどです。
「宝暦治水」について興味を持たれた方は気の済むまでお調べ下さい。
ボクは本当に一生懸命調べました、ネットの無い時代にです。
小学生の足ではたかだか知れていましたが、とても近隣に集中していたため、学校の先生、お寺(桑名の海蔵寺、養老の天照寺など)の住職に聞きました。
友達と唯一違う「ボクだけが鹿児島の出身」だったからです。
聞けば聞くほど凄まじく、子供ながら「いまの時代に感謝」のようなことを思ったものです。
また、高校に入るため中学から養老町大巻(平田翁自刃の地)でバイトしていたボクは、親方と一緒に、とても大きなお屋敷のトイレ工事に入りました。
当然ながら、汲み取り式ですが、便器が七宝焼の紫がかったそれは見事なものだったのを覚えています。
名前は言えませんが薩摩藩とゆかりのあるお屋敷だったそうです。
ボクは工事に携われたことに、数奇な運命を感じずにはいられませんでした。
さて、概要としましては本当に江戸幕府が嫌いになってしまうため「ザックリ」と、お伝えしますが、非常に大義名分を持った極悪非道極まりない出来事に思えてしまいます。(江戸幕府ファンの方ごめんなさい、この先はご遠慮下さい)
岐阜県というと山が多いイメージがあると思いますが、美濃地方は、その昔は海だったと言われており、山からも貝塚などが出土しています。
濃尾平野と呼ばれる平地も広く、海抜0メートルのところもたくさんあります。
そこに、大きな川が3本(揖斐、木曽、長良)あり、たびたび洪水を起こしていました。
そのため、9代家重公の時に江戸幕府は鹿児島藩に「これを治水する工事」を依頼しました。
これだけを聞くと「さすが江戸幕府」と思うでしょうが、実はこんな依頼と言われています。
「お金も人も出さないけど、岐阜の人が困っているので工事に行ってください」
「ザックリ」いうとこんな感じではないかと思います。
当時、財政が厳しい鹿児島藩は、さらに追い打ちをかける江戸幕府からの嫌がらせ(鹿児島藩のチカラを削ぐためとも言われています)ともとれる依頼(命令)に憤然となりましたが「洪水で多くの死傷者」が出ている事実に稀代の英雄「平田靱負(ゆきえ)翁」が、立ち上がり皆を説得しました。
(受けなければ厳罰は、まのがれません)
また、この治水工事を行うため「黒糖を担保」にして多額の借金をしたと言われています。
(これが奄美などの黒糖地獄に拍車をかけます)
さらに、工事環境も劣悪、食事も粗末、工事自体も順調にいかないように小細工されていたようで(調べるほど腹立たしい)これらの仕打ちに抗議し(耐え切れないのではない)切腹する人が続発しました。
しかし、切腹自体が幕府に対し不義であるため「腰のもので負傷」などとして隠し、工事を完成させました。
どのような思いで工事を完成させたのか想像もつきません。
この工事は一定の効果は上げたのですが、明治にもう一度、三川完全分流工事を行いました。
これを「明治治水」と呼び、完成後の式典では、山形有朋卿、当時内務大臣であった小西郷の信吾氏(従道)(西郷どんでは錦戸亮さん)が参列したとされています。
それだけ大きな事業であり、薩摩隼人の不屈の魂を讃え、鎮魂の祈りを捧げたことでしょう。
鹿児島県人としては誇らしくもあり、悲しくもある出来事だと思います。
討幕を果たしたときは「日本の夜明け」だけではなかったんじゃないかと思わずにはいられません。
この場所の町名は「平田町」と言い、とてもすばらしい千本松原が続く堤防があります。
ぜひ、歴史をしのび訪れてみてはいかがでしょうか?
また、死没者も自刃によって亡くなった英霊も、なぜか、結構な数のお寺にバラバラに供養されています。
調べてお参りしていただければ幸甚です。
本当に触れるくらいのお話ですが「西郷どん」の時代に到るまで、幕府との禍根の蓄積がありました。
ですから、久光国父も江戸幕府に良い印象を持っていなかったんですね。
さて、今日のお話はここまでです。
また明日に続きますので、ぜひお付き合い下さい。
あなたの日々がステキな一日でありますように!
チャバティ64でした。