千原ジュニアさんとケンドーコバヤシさんに読んで貰いたい続続続編?
こんにちは、チャバティ64です。
さて、ボクがなぜRSシリーズも続続続続編です。
名残惜しいような気もしますが?
いずれにしても完結全編です(笑)
(当時70kg、真冬にTシャツ、スイングトップって大丈夫か?)
スイカRSを売り、ブルーのRSを買ったボクだったが、この数か月後、体調を崩し入院することになった。
精密検査の結果、原因不明(笑)の肝臓病で3ヶ月間の入院、その後3ヶ月間の自宅療養(岐阜へ)になった。
体重は42kgまで減り、バイクの引き回しなど出来るはずもない。
前にも言ったとおり、この頃のバイクは乗らないとすぐにサビるし故障もする。
入院中にバイク仲間が来た時に、ブルーRSが不憫だったので「大切にしてくれる人」がいないか、あたってもらうように頼んだ。
このとき退院するめどがまったく立っておらず、不安しか無かった。
当時たしか21才だと思ったが、肝臓の治療薬を使うと日光に当たれなくなるそうで(真っ黒になるらしい)昼間はカーテンを引きっぱなしにしていて夜に開けていた。
若くやんちゃだったため、夜に病院を抜け出しては近くのコンビニに買い物に行った。
(ささやかな唯一の楽しみ)
この頃には、仲良くなった同じ病気で入院する向かいの部屋のおじさん(当時40才)と、一緒に買い物に行き、新聞や雑誌を買うのが日課になった。
食事制限があったのでお菓子は買わなかったが、タバコは吸っていた。
(当時の病院は待合に灰皿があり普通に吸えた。信じられないでしょ?)
ある日、おじさんがいなくなっていた。
ボクは夜しか部屋を出ないのであまり他の患者さんのことは知らなかった。
看護師さんに「〇〇さん退院されたんですか?」
看護師さんはうなずいた。
「なぁ~んだ、昨日言ってくれればいいのに、水臭いなぁ!」
言った後に「ヤベッ、夜のお楽しみがバレる」と思い、うつむきながら看護師さんを目線だけで見た。
看護師さんは顔を横に振った。
「実は今朝方、急に容体が悪くなって...」
「え~っ!!!マジで?」
亡くなって退院していました...orz 合掌
大した人生経験もなく、若かったボクは「昨日まであんなに元気だったおじさん」が急に亡くなってしまうことが受け入れられなかった。
なぜならば「同じ病気だから」だ。
その夜は布団の中で震えながら寝むれなかった。
明日は目が覚めないんじゃないか?
見てもいないのにおじさんが苦しむ姿を想像した。
「次はボクの番だ」
この恐怖は退院の許可が出るまで続いた。
さて、バイクに話を戻すと、
当時、漫画の影響か少しRSの人気が上がってきていたようだ。
すぐに買い手が見つかり、譲ることにした。
バイク屋さんに頼んで名変をしてもらい退院した時にはバイクはすでになかった。
「さみしいがしょうがないか」と思った。
しばらくは自宅療養でおとなしく過ごすしかなかった。
療養ひと月が過ぎたころ、少しずつ体重が戻り始め散歩が楽しめるまで回復してきた。
幸い?おふくろが糖尿病で散歩が日課だったため毎日一緒に歩くことが出来た。
今思い出しても、いい時間だったのかもしれない。
それからは、仕事の復帰に向け少し強度のある運動を始め、ふた月を過ぎたころ完全復帰(自己採点)を果たすことが出来た。
自信満々に病院へ検診を受けに行ったが数値が思わしくなく、さらに「ひと月の療養」を課せられた。
ここまで来たら、ふた月も、み月も一緒かな?と腹をくくった。
ひと月後、無事に仕事に復帰したが体力は、かなり落ちていた。
そのため、体力づくりもかねて「ボクにはバイクが必要だ」?と、あらぬ方向に思いをはせ、探すことにした。(単に欲しかっただけ)
当時「ミスターバイク」(廃刊)というステキなバイク雑誌に「売りたし買いたし」という個人売買掲示板のようなコーナーがあった。
格安なのだが競争率も高くなかなか入手できないものだった。
(RSはまったくダメだった)
ペラペラ眺めていたら名古屋で「忍者750」が格安で出ていた。
当時のことなので写真もなく細かい詳細もない。
個人情報丸出しの電話番号と名前があった。
もちろん携帯電話などなく家電である。
ボクは公衆電話からこの番号に電話した。
何度か電話したが全然出ない!(笑)
仕方がないのでダメ元で往復ハガキに「譲って欲しい」と書き送った。
すると、一週間後、封筒が届き「写真と手紙」が入っていた。
そこにはこう書かれていた。
「手紙をくれたのはあなただけです、あなたに譲ります」
その手紙を読んだとき、涙が出るほどうれしかった!
今思えば病気で心が少し弱っていてバイクに頼ったのかもしれない。
今日のお話はここまでです。
あなたの今日がステキな一日でありますように!
チャバティ64でした。