生きてて良かった!- 茶 葉 tea’s -

〇〇〇?そいつに自由はあるのかい?

「西郷どん」と「ボク」と「悲しい話」と「ご縁」

こんにちは、チャバティ64です。

 

 西郷どんシリーズ?パート3です。

 (すでに西郷どん関係なくなってますね)

 

「ボクが鹿児島生まれで岐阜育ちのわけ」

に途中から変わってます。

さて、お話の続きを始めます。

 

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(どこまでいくのやら) 

 

ボクが小さい頃は「新幹線」も、まだ通ってなく岐阜から鹿児島まで電車で24時間以上かかりました。

途中で単線になるため「すれ違いの待ち」が、たくさんあるのです。

今では考えられないことです。

 

鹿児島の実家に行く前になると突然!「おふくろ」「おもちゃひとつ買ったる」と、言います。

クリスマスも、こどもの日もなかった我が家に

「盆と正月が一緒に来た」みたいなもので、兄とオモチャ屋さんでなかなか決められない戦いをしていました。

 

オモチャが決まるとおふくろに持っていき「検品」をうけます。

基準は「長い時間遊べるかどうかです」

車好きのボクはミニカーを持っていき、ずいぶん却下された覚えがあります。

 

すでに、お気づきかもしれませんが「おふくろ」薩摩おごじょ(鹿児島の女性)」なのです。

 

さて、ここからが本題です。

 

おふくろは中学を卒業すると集団就職で岐阜の工場に入り「針子さん」と、なりました。その時にたくさんの同級生と岐阜へ引っ越したのです。

 

当時、岐阜では縫製業が盛んで大変好景気だったそうです。

当然、地元でも東海三県でも就職希望者は多かったようですが、なぜ鹿児島出身のおふくろ達が採用されたのでしょう?

 

それは、今風に言えば「忖度」がありました。

そうです、ここで薩摩義士へのお礼に、お世話になった鹿児島の人たちへ恩返しをするのです。

 

針子さんだけではありません。

教職員も他県への流入は基本ありませんでした。

岐阜県でも他県からの受け入れはしていませんでしたが「鹿児島の教師だけ」は受け入れていたのです。

 

ボクが小さい頃は「九州弁丸出し」の、先生がたくさんいました。

そんなわけで、鹿児島の田舎で育った学の無いおふくろでも、ご先祖様のおかげで、うまく就職でき、岐阜の人と結婚できたわけです。

(言い過ぎ?おふくろごめんね!)

(ちなみにその8年後、おふくろの妹も岐阜に針子さんで来ました)

 

ちょっと鳥肌が立つような話でしょう?

でも、すべて実話なんです。

 

ボクはめでたく鹿児島と岐阜のハーフとなりました。

 

さらにディープにまいりましょう。

 

さすがにボクは体験したことがありませんが、ここでも数奇な縁が訪れます。

 

静岡で工場勤めをして2年、20歳になったころ、仕事がすごく忙しくなっていました。

連日の残業はあたりまえ、休日出勤も毎週あり、若いボクは「うれしい悲鳴」で、すごしていました。

(おかげで「クラウン(中古)」が買えました)

 

そんな時、各職場に「季節社員」という期間限定の作業者が応援に入ってきました。

ボクの職場にも「年配のおじさん」と「ひげを蓄えた怪しげなおじさん」の2名が配属されました。

 

当時ひげをはやしていた人は稀で、すぐに人気者になっていました。

もう一人の「年配のおじさん」はとても無口でぜんぜんしゃべらない代わりにニコニコ笑ってうなずいている人でした。

(少し変わり者に見られていました)

 

土曜の夜に友人と近所の居酒屋に行くと、この「年配のおじさん」が一人で飲んでいました。

あぶったイカ芋焼酎さつま白波だったと思います)の、お湯割りです。

 

八代亜紀さんの歌が聞こえてきそうです。

 

空いていたので「となりに座っていいか」を聞くと、ニコニコ笑ってうなずきました。

ボクは、このおじさんに興味があったので色々と聞くことにしました。

 

どうして話さないのか?

人と話をするのが苦手なのか?

 

なぜ興味を持ったのかはわかりませんが、なぜかすご聞きたかったのです「出身地が」

 

おじさんに尋ねました「おじさんは話が出来るの」(失礼)

おじさんはニコニコ笑ってうなずきました。

 

次に訪ねました「どこから来たの?」

おじさんは少し間をおいて、指でテーブルに書きながら本当に小さな声で言いました。

 

「かごしま」・・・ボクは!!! 

「なんとなくだけどやっぱりだ!」と、思いました。

 

まだまだお話は続きますが今日はここまで。

 

あなたの今日がステキな一日でありますように!

チャバティ64でした。