生きてて良かった!- 茶 葉 tea’s -

〇〇〇?そいつに自由はあるのかい?

地震でお亡くなりになった方に哀悼の意を表します。

地震でお亡くなりになった方には心よりご冥福申し上げます。

厳しい環境に置かれている被災者の方にはかける言葉も見つかりません。

とにかく人命第一でお気をつけくださいますようお願いいたします。

 

こんにちは、チャバティ64です。

 

本日は地震のお話です。

地震大国ニッポンは、たびたび本当にひどいことをします。

「昨日までおだやかだった生活」

「昨日まで美しかった街並み」

「昨日までやさしかったあの人」

本当にひどいことをする。

 

世界の人智でも、いまだできない的確な予測

いつどこで、何時かわからない不安

突然襲う大地のうねり、本当に恐怖でしかない。

 

タンスは固定する(アパート住まいはどうする?)

避難場所を確保する(近場になければどうする?)

急いで非難する(体の悪い人はどうする?)

防災用品を揃えておく(補助金出ないかな?)

 

身近に感じることでも「どうする?」しか出てこない。

 

阪神淡路の震災の時、我が家の子供は粉ミルクを飲んでいた。

テレビで「粉ミルクが手に入らない」と、お母さんが言っていた。

ボクは悲しくなって、泣きながら薬局へ粉ミルクを買いにいった。

なけなしのお金だったから沢山は買えなかったけど

しょげてるボクを見て、薬局のおじさんがすごく値引きしてくれた。

そのおかげで「二缶も」余分に買えた!

(薬局のおじさん、ありがとうございました!)

 

大阪へ向かう決意をした。

 

今度はかみさんに泣きながら止められた。

「無理だよ、たどり着けないよ」って

「うちだって子供が小さいんだから、義援金送るから」って

 

仕方がないので国道のトラックステーションに行き

「大阪」「なにわ」「和泉」「兵庫」「神戸」などのナンバーを見つけると

行き先を聞き、運転手さんに粉ミルク缶を託した。

ボクの「エゴ100%」だってことはわかってる

「誰でもいいから困っている人に渡して欲しいんだ!」

運転手さんはイヤな顔ひとつせず皆、快諾してくれた。

 

中にはお礼を言ってくれる運転手さんもいた。

誰のためでもない「世界一美しいお礼」だと、ボクは思った。

(あのときの運転手さん達、本当にありがとう!)

 

東北であった震災では津波による被害があった。

ボクは2週間後に石巻へ復興支援のお手伝いにいった。

 

通り過ぎる車はほぼ自衛隊の車両で、高速道路の継ぎ目に

ものすごい段差があってパンクするんじゃないかと不安を覚えた。

ガソリンもない、コンビニもない、あたりは一面が更地のようだった。

道路脇にはつぶれた車がズラッと並んでいた。

「これが被災地というものか」背筋が震えっぱなしだった。

 

市役所脇で重機が規則正しく縦に穴をいくつも掘っていた。

ちょうど棺が入るくらいだろうか?

 

やっとの思いで石巻港に着いた。

岸壁に「見上げるような大きな船」があった。

まるでオブジェのように鎮座している。

理解するまで少し時間がかかった。

 

となりの大きな工場の3階付近に「ゴミ」がたくさん付いていた。

聞いたら「あそこまで水が来たんだよ」って言われた。

想像したら「絶対に助からない」って、今度はすぐに理解できた。

 

地元の若い彼に話を聞いた…

「港の水が一気に10メートルくらい引いたんだ」

チリ沖地震の時とは比べ物にならない規模だって思ったそうだ。

マズイと思って、そこにいた漁師のお年寄りをむりやり

軽トラックの荷台に乗れるだけ乗せて高台に避難させた。

高台では遠くから津波が来るのが見えた。

 

それでも二往復出来た。

三度目は、すでにむかえなかった。

「もう少し気づくのが早ければ、もっと助けることが出来たのに」

と、その彼は悔やんだ。

 

こういう人が人の上に立てば良い世の中になると素直に思った。

 

寄付も有名人の活動も素晴らしいけど、こういう人が地元と

共存していく以上「対策と支援は大切」だと痛感した。

 

ボクはわずかながらお手伝いをして帰った。

二日後、とある企業へ行ったら車から放射線が検知され入場を拒否された。

 

一生忘れることのない自分の体験です。 

今日のお話はここまで

 

これ以上、余震などで被害が拡大しないよう祈ります。

過去を思い落ち込むチャバティ64でした。